ニュージーランドで【学ぶこと】の意味を考える

何でこんなにみんな伸び伸びと楽しそうに学んでいるんだ!!

これが、高校2年生で初めてニュージーランドを訪れて、複数の高校や小中学校を訪問、見学して感じたことでした。

高校の授業では、毎時間ベルが鳴ると、生徒たちはそれぞれの授業のクラスに行って授業を受けます。
私が、日本の学校でそうであったように、1日中2年〇組に属して、ほとんどの教科をその教室で受ける、毎時間異なる先生がやってくるスタイルとは全く異なりました。
高校2年にあたる生徒たちは、時間ごとに木工や英語、体育等々、自分の時間割に基づいて動き、木工の授業では異なる複数の学年の生徒が一緒に学んでいました。

中学生辺りの年齢で、学校の勉強が合わない子ども達は、学校を離れて、実家の牧場を手伝ったり、職業訓練校に行って働いたりしていました。
大学等への進学を目前にした、高校3年生にあたる生徒たちは、自分たちが1日中自習できる部屋があてがわれ、受験生にのみ与えられた特権を謳歌していました。時折、受験に直接関係ある科目を受講しに、授業が行われる教室へ出向き、それ以外は入試の対策をしているようでした。

小学校を訪問して、日本の文化の折り紙などを教えた時に、こんなことがありました。
何人かの日本人が分かれて、それぞれが、10人ほどの子ども達のグループに折り紙を教えていました。
私の教えたグループには5~6歳の子ども達が8人ほどいました。私のつたない英語と折り方を見ながら、すぐに折れる子どもと、すぐに分からなくなってしまう子どもがいました。
できない子どもには、様子を見ながらサポートをしていましたが、そんな時に、折り紙を難なく折っていた女の子が言いました。
『○○(別な子どもの名前)は、まだ小さくて、うまくできないから、助けてあげなきゃいけないの。だから、先生も叱らないでね。』と。
どうやら、最近入学したばかりの子どもで、少しサポートが必要な子どもをしきりに気遣っていました。

【我先に】とか、【順位付けによる競争】みたいなものがなくて、のんびりしていて、小さな子どもでも仲間を気遣っている、何かいいな~と感じました。

そして、自分の日本での学校生活を振り返った時に、私は、初めて【学ぶ意味】を考えました。
毎日小テストの為に、英単語や古文の意味を覚えることにうんざりしていた私。
しばらくすれば、忘れてしまうのに、こんな膨大な使いもしないような単語を学ぶ意味って何だろう?とずっと思っていたので、このニュージーランドでも経験は、非常に衝撃で、【高校や大学へ行くためだけに、学ぶわけではない】のだと、実感しました。

児童中心主義に基づくニュージーランドの教育

Education in New Zealand is a student-centred pathway providing continuous learning progression and choice so that:・students progress every year, and their learning at one level sets the foundation for the next steps along a chosen pathway.

Education in New Zealand – Education in New Zealand

上記のように、ニュージーランドの教育省のページには、【ニュージーランドの教育は学習者中心の教育法により継続的な学びの向上や選択肢を供給することにより、生徒が毎年向上できる、その後の進路に沿って、次の段階への基礎を構築できる】ということが書いてあります。

現地の教員養成大学では、何度となくこの【child/student-centered】という言葉に出逢います。
とにかく、学習者を中心におき、学習者に最適な学習方法や学びの材料を提供するという概念が根底にあります。
【効率を考えて指導しよう!】とは対極の、【1人1人にあった支援と指導】を意味しています。

実際に、私が1年間、実習を行った中学校(日本の小学5~中学3年くらいの子どもが通う)での社会の授業では、次のような授業が展開されていました。

学習題材(単元):第二次世界大戦

<学習(授業)の進め方>

①既に知っている知識の確認と、ぼんやりとした概要の理解

②教師から子どもへの研究テーマの提示

③テーマの選択、研究の流れの確認と研究計画書の作成

④各自研究

⑤研究のまとめと報告書作成

⑥発表と質疑応答

日本の学校であれば、画像、動画、記事、教科書などから、第二次世界大戦の概要や、参加国、出来事、主要な国や場所、条約名、出来事などを系統だてて学習します。
①ニュージーランドでは、まず、それまでの学習や、子ども達のその時点での知識で、第二次大戦について知っていることを出し合い、みんなでぼんやりとした概要をつかみます。教師は、やはり映像などを活用して、子ども達の興味を引き出します。
②その後、子ども達には、幾つかのテーマ【ナチスのホロコースト、ヨーロッパでの戦闘、原爆等々】が与えられ、子ども達は、最も興味のあるテーマを1つ選びます。
③その後、リサーチの方法やプレゼンテーションの仕方を学び(とは言っても、多くの授業で同じようなことをしているので、大体分かっています)、計画書を作成して教師に提出し、OKがもらえれば、リサーチスタートです。
④以降の社会の時間は、決められた時間(3~5時間)は、各自がコンピュータ教室や図書館、教室に分かれて、時折、教師のサポートを受けながら、自身の発表資料を作成していきます。
私が日本人ということもあり、数名の【原爆】を選択した子どもが、実際の状況や、資料には載っていないこと、子ども自身が疑問に思うことを、繰返し質問に来ていました。
⑤その後、子ども達は、収集した情報をレポート用紙や、A3の画用紙など、指定されたものにまとめていきます。
⑥そして、最後に、各自が自分の研究を発表していきます。
【なぜ、原爆は広島に落とされたのか】
【原爆は戦争の終わりを早めたのか】
など、大学生の私も驚くようなテーマを設定して、発表をしていました。
この、発表や、途中経過、レポートが評価の対象になり、中間試験のようなものはありませんでした。

子ども達は、出来事を時間軸で暗記したり、理解したりするのではなく、どんな歴史に残るような出来事が起こり、その背景や影響はどのようなものだったのかを、掘り下げて学んでいます。

しかし、【原爆】について調べた子どもは、原爆に関する理解は他の子どもより深まるものの、ナチスのホロコーストに関しては、級友の発表や質疑応答から学ぶ情報に留まります。
この後の、大学や専門学校進学を視野に入れた進学校に進む子ども達は、その時に体系的に学ぶことになります。
このような学び方は、偏りが出て、子ども達の基本的な知識や理解を深めないのではないかという議論も長年行われています。実際に、ニュージーランドの子どもの平均的な学力が低下していることを指摘する研究もあります。

子どもの学びを実現するために必要なこと

日本のように、皆が教科書で取りこぼしなく学習する方が良いのか。ニュージーランドのように、子どもが興味、関心のあることを中心に学んだ方が良いのか。

正直、どちらが正解と言い切ることはできません。両方に、良い部分と、マイナスな部分があります。
ただ、私が日本の中学校で教壇に立ち、多くの子ども達と接して感じたことは

  • 興味や関心がないことを積極的に学ぶことは難しい
  • 自分の興味、関心外の何かを学ぶことは、未知の世界を知るきっかけになる
  • 画一的な学習方法により、学びの楽しみを知る前に、そのドアを閉じる子どもが多くいる

ということでした。

どんなに、素晴らしい教材や知識と出逢っても、興味のないものを【もっと知りたい!】と思うことはありません。
子どもにとって、身近な物や、慣れ親しんだものに関連するものであれば、多少興味がわくことはあります
勿論、限られた環境の中で生きる子ども達が、学校の授業を通して【英語】や【外国の文化】に触れて、興味を持ったり、【もっと知りたい】となったり、【私、これすごい好きかも!】となって将来の進路につながることもあります。

しかし、小学校から始まる、【規則に縛られた学校という場所で、決まった時間椅子に座って、興味のない話を聞き続ける】ことに拒絶反応を起こし、学校へ来ることができない、来ても【学ぼう!】という意欲がない子ども達が多くいました。

私は、そのような子ども達に、【学ぶことが嫌いなのか】【学校の何が問題なのか】を聞いたことがあります。多くの子どもが言うのが

  • 本を読むことも、学ぶことも嫌いではない
  • 授業では「へ~」って思って面白いことも、全てテストで点数化されると、それが全てになる
  • 点数が悪いやつは、【学ぶ資格がない】って言われている感じがする
  • 質問しても、「それは関係ない」「知らなくてもよいこと」とはぐらかされて終わる
  • 先生が一方的に、正解を言ってくるだけで、もっと色々考えたい
  • 興味のある教科を、もっと深く勉強したい
  • 点数を取るための勉強はつまらない

ということでした。

実際に、『英語の文法は意味不明だけど、文化とかを知るのは楽しい。英語を話せるようになりたいと思う。』と言った男子生徒もいました。漢字の練習や読書など嫌がるのに、自分の好きな車やバイクの小難しい説明書は、文字だらけでも平気で読む生徒もいました。不登校で、学校へ来られない女子生徒で、海外のことを知りたい、海外の人と交流したいと思い、自分で洋楽を調べたり、英語のメッセージを送るために英作文をしている子どももいました。

こういう子ども達は、通常の定期試験で良い点数を取ることはありません。
恐らく、その為に何をすべきか分からなかったり、分かっていても、それをしないからです。

一見すると、【やる気のない子】であり、【この子のやる気はいつ出るのか?】と思われがちです。
しかし、こういう子ども達は、決して【学びたくない】わけではなく、自分に合った【学び】を学校という場所では実現できないだけなのです。

私は、【学び】は学校の中だけで起こるものではないと思っています。
生きている限り、日々【学び】は必要だし、大学を卒業すれば終わりでもありません。むしろ、死ぬまで【学び】は続きます。
学校は本来、そういった【学び】の方法を知ったり、仲間と一緒に学ぶ中で知識や理解を深めたり、と【学び】を提供できる、しやすい場所であるはずです。
しかし、実際は、そのような1人1人の興味や関心を追究できるような仕組みにはなっておらず、結果として、学校という場で【学ぶ】ことを諦めざるを得ない子どもが多く出てきます。

全ての子どもが安心して、前向きに【学ぶ】ことができるためには、ある程度整った環境が必要になります。
何かを学ぶための材料(本、インターネット、学びの対象物等々)や、その学びをサポートする大人や専門家。
私は現在、【学び】をサポートする仕事をする中で、このような学びに必要な環境、そして、子どもが安心して【学びたい】と思える環境や機会を日々提供したいと考えています。

まとめ

ニュージーランドで、衝撃を受け【学び】の意味を考えた日から、私がたどり着いた【学び】とは:

  • 1人1人の子どもが、関心や興味のあることを意欲的に追究すること
  • 苦痛な作業ではなく、喜びや次の段階につながる生産的な活動

です。そして

  • ニュージーランドの児童中心主義に基づく教育から学ぶ・考えることは多くある
  • 児童中心主義が全てを解決するわけではない(1つのアプローチであり、どう活用するかが重要)
  • あくまでも、学習者が中心にいて、【学び】は行われるべき
  • 学校に適応できていない子ども=【学びを放棄している子ども】ではない
  • 【学び】の実現には整った環境や適切なサポートが必要

とまとめることができると思います。

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